【人生はプース・カフェ Barに集えば…】イスラエルの夏2001 22 最終話『日本にいた私、帰ってきた私へ』
プース・カフェとは、様々なリキュールの比重の違いを活かし、幾重に鮮やかな色が重なるカクテル。人生もまた色とりどりの思いでの重なり…
【22.1. 回想・巡り広がる世界】
冬のイスタンブールと夏のシンガポールで2晩ずつ過ごして、成田空港へ向かう飛行機は、昼過ぎには着陸する予定とアナウンスがあった。
日本に帰ったらなにを食べようか。
ここまで、もう数え切れないくらい食べた機内食を、何となく食べながら、日本の食べ物を思い出していた。
しかし、シュワルマも沢山食べたな。日本にはまだ無いなあれは。
ふと自分は日本の大学4年生だった事を思い出した。年が明けたら大学最後の卒業試験を受けないといけなかった。だから元々、この時期の帰国を計画していたのだった。
結局後に、残りの単位を取る為に各教授を巡りった時、イスラエルに行って来たので、一度も授業に出ていない事を伝え、試験を受けさせてもらえないか聞いた。半分の教授はイスラエルでの経験は貴重だっただろうと、特別な課題を用意してくれて、もう半分は、そんな学生は要らないと断った。
3年生の終わりから就職活動もしていた。神谷町にある商社だった。はじめの面接官に10月の入社式は、イスラエルにボランティアで行っているので出られないが、面接試験を受けていいか尋ねた所、快諾されていたはずだった。
しかし、5度目に神谷町に行った時の社長面接で、会社を1番に考えられない学生は要らないと断られた。
イスラエルの生活に慣れ始めた頃、誰かが将来何をしたいの?と私に聞いた。私は迷わずに、就職活動をして、どこかの会社にまず入社すると答えた。
「どうして?」と聞かれたから、みんなそうしているからと答えた。
とても不思議がられた。そして、「あなたは自由なんだよ。」と言われた。
そんな事言われても、、と私は思ったけど、その返し方がわからなかった。
その時は、世界がこんなに広く広く広がっている事を、まだよく分かっていなかった。
【22.2. 生きる為に。生きるという事。】
ペトラの石を売る少年は元気にしているだろうか。
私は今、飛行機に乗って日本の成田という空港に向かってます。
石は大事に持っています。
たまに見て、君の瞳や君の声を思い出します。
それらは君の強さだと今はわかります。
私がイスラエルに来る前、「殺されるかも知れない」という経験をした事がなかった。でも、イスラエルに住む人は皆、その恐怖を抱えながらも強く、生きようとして、生きていた。
それはイスラエルだけの事では無かった。世界の至るところで、そういう状況はあった。
自分が「生きているという事」は知っていたけど、生きようと思って生きていなかった。イスラエルで生きようと思って、生きたいと思った時、死にたく無い、生きたいと思った時、みんなそうしようと一生懸命なのだと思った。
だから彼らは強く見えて、優しく見えた。自由に見えた。
私は自分がなく、何をしたいか決まっていない、迷っている弱い少年だった。
ペトラの少年は強かった。
一生懸命生きて、自分で考えて決断し、人を見て学び、出来るだけ周りの人に優しくしていきたいと思った。
イスラエルでの経験は掛け替えかななく、そのヒトカケラすら、見落としてはいけない、大切なものだった。そこで得た事が、余りに膨大過ぎて、どこから話をして良いか分からなかったし、これを人に全て話す事は出来ないと思った。
多くを共感したアンディは、遠くのチェコに帰ってしまうだろうし、みんなに書いてもらったアドレスメモは、それぞれ文字が個性的過ぎて読めない部分も多かった。
その瞬間、瞬間が特別に輝いていたイスラエルでの生活は、同じ様には2度と来ない。
飛行機は間も無く着陸態勢に入るとアナウンスがあった。
【22.3 「ただいま」】
到着ロビーには彼女が待っていてくれていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
心から安堵した。日本だ。平和な国、日本だ。
成田から横須賀までの電車では、何から話して良いか整理のつかない私が、流れる列車からの風景を見ながら、ただ綺麗な景色だったとか、日本と全然違ったとか、ハイファでロープウェイに乗ったとか、海に飛び込んだとか、要領を得ない事ばかりを興奮気味に話していた。
そんな私が落ち着くまで、彼女も深くは聞かなかった。
空港で父にも電話をかけた。
「おかえり、まさくん、無事で何よりだよ。」と父は言った。
「ただいま、無事に帰って来たよ。」
と伝えた。
そんなやり取りが懐かしく、そして少しずつ私の心を日本に戻して行ってくれていた。
地元の駅に着いたら電話して父が迎えに来てくれる事になっていたが、その前に彼女と街で簡単に食事をして帰ると伝えた。
「なにたべたい?」と彼女は聞いた。
「うーん、、、お寿司の事をずっと考えていたんだけど、ラーメンと餃子が食べたい。」と。
「えっ、中華?」
私も意外だったが、本音だった。
街のいわゆるラーメン屋さんで、テーブルに運ばれてくる4カ月ぶりの生ビールに心が躍り、胃が騒ぐ。
「改めて、お帰りなさい。お疲れ様でした。」
「ありがとう。ただいま。」
2人は私の凱旋帰国を祝って乾杯をした。
少しずつ、少しずつ、またこの国に戻ってゆく。まだ慣れない感じはあるけれど、ここは紛れもない祖国だ!
「ねえ、それで、どうだった?イスラエル。」
「うん、長かった。色んなことがあって、話しきれないなぁ、、、」
「テルアビブの空港はさぁ、まっ昼間の、真夏でさあ、、、」
「何それ?ちょっと日本語へんだよ?」
「大丈夫、直ぐに馴染むと思うから。」
「アイシンク、、メイビー、、、」
「何それ?」
「あ、これ?、、、、口癖。」
「ふーん、、、、変なの。」
もう直ぐクリスマスだ。
すっかり黄色く色付いた銀杏の葉が、音も無く私の肩に落ちて来た。
おわり
あとがき
書きながら思い出すにつれ私の大切な経験を記録に残せる事がすごく嬉しく、嬉しさと共にまた記憶が鮮明に蘇りました。
帰って来た頃、色んなことがありすぎたイスラエルの事を誰とも共有出来ない悲しさを20年ほどたった今、解消してる感じで嬉しいです。
当初の目標、「英語が話せる様になる」はどうだったかと言うと、帰国後、直ぐに受けたTOEICで、ヒヤリングはほぼ満点。ライティングはほぼ行く前と変わらない、合計700点と言う不思議な点数を取った後は一度も英語の試験と言うものを受けていません。
デービットが、とにかく表に出て友達と話せ!がそのまま点数となりました(笑)
今回、思いの外多くの方に、「イスラエルのやつ読んでますよ。」とか「次も楽しみにしています。」と励まして頂き本当にありがとうございます。
書く機会をいただきながら、ほとんどこれは私の為だと思い、始めたのとでしたが、支えてくれる方々がいた事で、出来るだけ思い出して、読みやすく、面白く書けたらと意識する事が出来ました。
最後の飛行機での回想に出てくる会社の面接試験でそのまま合格していたら、もしかしたらバーテンダーになる事もなく、イスラエルの経験を語る事も、書く事も無かったかも知れないと思うと、世の中のご縁とは不思議なものだと感じ、同時にそのご縁に感謝いたします。
私のイスラエルやその他の経験は珍しく、カウンターで話すと喜んでいただける事もあります。また、そうやってバーテンダーとしてお客様と触れ合う事で、私の人生経験は厚みを増してゆきます。今後もお客様にお話しできる事を探し、共に語り合えたらと思います。
敢えて、本編で書かなかった経験の中に、番外編【イスタンブールの夜】がありますが、これはまた、イスラエルのテロの恐怖とは別のイスタンブールならではの出来事を書く予定です。
こちらも、何処かでご紹介させていただけたら幸いです。
イスラエルで出会った全ての人達、そして、イスラエルに行く前も帰って来たあとも、出会った方々全ての瞬間に私は育てられている事を実感し、感謝いたします。
【人生はプース・カフェ Barに集えば…】
《イスラエルの夏2001 》を書くにあたって、読む事で支えてくれた皆様、さらには、この度この様な素晴らしい機会をくださった『新聞新発見メディア「つなぎ」』の発案者であり、製作者の山中氏に感謝いたします。
世界中が新型コロナウイルス(COVID-19)感染症に晒され混乱する中、少しでも遠くの皆様が「生きる希望」を持ち続けられます様に。
本当にありがとうございます。
2020年12月吉日
Cafe&Bar Blue Reef 角井正朋
Bar Blue Reef | バー・ブルーリーフ
1-17-12 Chuo-cho,
Meguro-ku, Tokyo 152-0001 Japan
〒152-0001
東京都目黒区中央町1−17−12
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