【高世仁のニュース・パンフォーカス】香港が消えた日

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7月1日、香港が香港ではなくなってしまいました。

 前日の深夜、香港の民主運動の息の根を止めるための弾圧法、「国家安全維持法(国安法)」が施行されたからです。



7月1日朝日新聞1面トップの記事


 香港には立法会という議会がありますが、この法律は中国の全人代常務委員会が香港の頭越しに、しかも法案の内容を外部に明らかにしないまま決めたものです。中国は、97年の香港返還から50年間は香港の高度の自治を保証する「1国2制度」を守ると約束していましたが、今回の立法は、手続きからみてもそれに反しています。


 この法律の内容がまたすさまじいものでした。

 国家分裂、政権転覆、テロ活動、外国勢力との結託の四つのいずれかにあたるとみなされれば最高刑は終身刑。この四つの定義は曖昧で、当局によってどうとでも解釈できます。中国本土の出先機関が直接に監視、取り締まりを行う体制になり、盗聴が広く認められ、密告も奨励されています。厳しい情報規制がしかれ、外国メディアにも情報の削除や資料の提出が求めらます。裁判官を当局が指名できるほか、中国本土に身柄を移しての裁判も可能となっています。まさに、中国当局のやりたい放題です。

 まさか!と驚いた条文もありました。

 第38条「香港特別行政区の永住権を持たない者も、香港以外で規定の罪を犯した場合、本法が適用される」。

 香港の外で、香港人以外の人にも適用するというのです。これでは全世界80億人を対象にすることになります。国際的な常識を逸脱した稀代の悪法といえるでしょう。


 施行翌日の7月1日に抗議行動が起きましたが、弾圧され370人もが逮捕されました。香港警察のツイッターでは、この法律に違反したとして逮捕された最初のケースを写真で紹介しています。


香港警察の公式ツイッターより


 説明書きに「香港独立の旗を所持し、国家安全維持法に違反した男が逮捕された。これが法律施行後の最初の逮捕である」とあります。彼は旗を広げたのではなく、荷物検査で旗を持っていただけで逮捕されました。警察は、デモで使用する旗や横断幕、叫ぶスローガンの内容でも逮捕・起訴すると明言しています。これでは、何を口実に逮捕されるか分からず、集会を開くことはもちろん、友達とSNSで政治について語ることも危険になります。まさに「もの言えば唇寒し」です。



「国安法」施行後、スローガンを書かずに白紙の紙を掲げる集会参加者


 また、民主活動家の書いた本が図書館で読めなくなったとのニュースが伝えられました。古代中国で本を燃やし儒者を生き埋めにした思想弾圧事件、「焚書坑儒」を思い起こさせます。

 活動家の中には、亡命を求めて海外に脱出した人もいます。また、日本でも知られた大学生の活動家、周庭さん(23)は、民主派の政治団体からの脱退を宣言しました。



周庭さんと筆者(去年9月取材時)


 集会やデモも下火になり、とりあえずは中国共産党の弾圧策が成功したといえそうです。


 去年、中国が容疑者とみなした人物を中国本土に引き渡す制度の導入を反対することからはじまった街頭活動は、民主化を求める大きな運動に発展し、世界から注目されました。 
 6月には200万人と、人口の4分の1を超える市民が参加した大デモまでありました。香港当局は市民の声に耳を貸さず、「勇武波」と呼ばれる一部の若者が火炎瓶を使うなど、実力行使を伴うデモも頻発、多くの若者が警察に逮捕されました。それでも運動は衰えを見せません。

 実は、容疑者引き渡し制度に反対するきっかけになった、怖い事件があったのです。「銅鑼湾書店」事件です。

 香港の銅鑼湾書店は、中国共産党を批判したり幹部のスキャンダルを暴露する「禁書」を扱うことで知られていました。ところが2015年10月以降、書店の経営者や株主など関係者5人が次々と謎の失踪をとげます。後に分かったのですが、3人は中国本土を旅行中に拘束され、1人は香港から、1人はタイのリゾートから「拉致」され、拷問を伴う長期の尋問を受けていました。とりわけ香港で身柄を拘束されて中国本土に連行されたケースは、「1国2制度」の乱暴な蹂躙です。この事件は香港人を震え上がらせました。
 容疑者引き渡し制度が導入されれば、同様の事件が常態化するのではないか、その恐怖が、香港人を立ち上がらせた大きな原動力の一つだったのです。



「5ヵ月間監禁され尋問された」と語る銅鑼湾書店元店長、林栄基さん(筆者撮影)


 香港のとくに若者たちの気持ちを知りたくて、私は3回香港に通いました。

 中学生を含む多くの若者を取材して知ったのは、彼らの切羽詰まった危機感と悲壮な決意でした。

 ある男子大学生は「勉強は未来のためにするものだよね。でも僕らには未来が見えないんだ。勉強している場合じゃないよ」と私に言い連日集会に参加していました。

 驚いたのは、少なくない若者が、遺書を書いてデモに参加していることでした。若い男性が家族にSNSで送った遺書には、こう書かれていました。
 「もう家に帰れないかもしれない。中国人民解放軍に殺されるかもしれない。でも、妹や甥にこんな濁った社会で生きてほしくない」。

 しかし、デモや集会で盛り上がっているとはいえ、相手は強大な中国共産党。冷静に見れば、彼らにとうてい勝ち目はないように思えます。ある若い女性に「これから香港はどうなると思いますか」と尋ねました。

 彼女は言葉に詰まって数秒沈黙すると、顔を覆うマスクからのぞく目に、みるみる涙があふれてきました。

 「香港がどうなるか私にはわかりません。考えたくもありません。でも、私たちは諦めません」。
 涙がぽろっとこぼれるのを見て、私ももらい泣きしそうになりました。
 香港が中国本土と同じようになってしまえば、今ある自由が失われる。香港が香港でなくなってしまう。その焦燥感は、若者たちを、勝目があろうがなかろうが闘うしかないところまで駆り立てていたのです。


 当時、「いまは1国2制度というより1.5制度くらいになっている」という声を聞きましたが、今回の「国安法」の施行でついに「1国1制度」になってしまったと多くの香港人は考えています。もはやここは香港ではなくなったというのです。


 ひるがえって、中国本土では「国安法」のような市民の自由へのひどい抑圧が常態化していることに思い至ります。ウイグル、チベットの人々だけでなく、漢民族でも人権を守ろうと立ち上がる弁護士やジャーナリストがつぎつぎに口封じのために拘束されています。

 いまやアメリカとならぶ超大国となった中国。そこで行われている人権弾圧にどう向き合うかは今後の世界情勢を左右する重大事です。

 中国当局は、香港で起きていることは内政問題で、他国は口を出すなと言いますが、かつて南アフリカでのアパルトヘイトに世界中が反対して改善させたように、人権には国境がありません。

 そして今、人権をめぐる闘いの最前線にあるのが香港です。


 香港と日本の関係は意外に深いものがあります。

 日本からの香港への農林水産物の輸出は2037億円と国・地域別で1位。在香港の日本企業の数は1423社と中国企業に次ぐ2位です。

 去年日本を訪れた香港人は229万人と中国・韓国・台湾に次ぐ第4位。香港の人口はわずか750万人ですから、なんと3人に1人が訪日している勘定です。日本語を学ぶ香港人も多く、とても親日的です。いま香港の人々は、世界を、そして日本を注視しています。
 周庭さんは「国安法」採択直前に日本向けツイッターでこう書きました。


 「日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」



周庭さんのツイッターより


 7月10日の「天声人語」は、香港情勢を論るじるなかで、ケストナー『飛ぶ教室』の次の台詞(せりふ)を引用していました。

 「すべて乱暴狼藉は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」


 香港の市民が声を上げられないなら、かわりに声を上げるのは自由を享受している私たちではないでしょうか。 

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