【高世仁のニュース・パンフォーカス】横田滋さんの死去に思うこと

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 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、滋さんが86歳で亡くなった。めぐみさんが13歳で失踪して43年、求め続けた娘との再会はかなわなかった。

 私は1997年2月、韓国に亡命した元北朝鮮工作員から、めぐみさんらしい日本女性を平壌で目撃したという証言をスクープした。その後、拉致問題は私が最も精力的に取材するテーマとなり、横田さん夫妻には、取材者という立場を越えて、家族ぐるみでのお付き合いをさせていただいた。それだけに、滋さんの死去の報には胸を塞がれる思いである。

 滋さんとの思い出をたどりながら、今後の拉致問題の進展について考えてみたい。

 振り返れば、拉致問題が今日のように、日本の政治情勢まで左右する大きな社会的テーマになったのは、滋さんのある決断からだった。



 めぐみさんは1977年11月、新潟の中学校で部活動のバドミントンの練習を終え、帰宅途中に自宅近くで忽然と姿を消した。警察が大規模な捜索を行ったが、目撃情報も遺留品もなく、事件は謎のまま20年が過ぎた。

 拉致という犯罪は残酷極まりない。わが子が理由なく失踪し、生死も分からぬままの状態がつづくのは、親にとって、子どもの死を知らされるよりつらいという。めぐみさんの母、早紀江さんは何度も泣きながら海岸をさまよい、自殺を考えたこともあった。

 そこに飛び込んできた「北朝鮮に拉致されたらしい」という情報。その時、滋さんは「生きていたのか」と暗闇の中で光を見たような喜びが湧いたという。しかし、冷静になると、北朝鮮から無事に帰ってこられるのかと新たな悩みが出てきた。

 すぐに直面した問題は、めぐみさんの実名と写真を明らかにするかどうかだった。妻の早紀江さんとめぐみさんの二人の弟は、めぐみさんに危害が加えられるかもしれないと実名公表に反対した。滋さんは、「Yさんは」などと匿名では世の中は動かないと、リスクを覚悟で実名公表に踏みきった。この決断が、その後の拉致問題の展開を決めたのである。


 めぐみさんの実名公表により、国会で質疑が行われ、テレビをはじめ多くのメディアで報じられた。北朝鮮による拉致が疑われながら、それまで実名を伏せてきた被害者家族たちが名乗りを上げて、拉致被害者家族連絡会(家族会)が結成され、「拉致被害者を帰せ」との声が大きな世論になっていった。

 滋さんの実名公表の決断がなかったら、北朝鮮による日本人拉致が国内だけでなく国際的にも周知され、救出への機運が高まり、被害者の5人とその家族を取り戻すということにはならなかっただろう。

 滋さんが「家族会」の代表になると、横田夫妻の暮らしは一変した。


2014年、モンゴルで孫娘のウンギョンさん一家と


 街頭署名に立ち、講演会で全国を回るほか、マスコミ対応、政府や自治体への陳情と、文字通り一日の休みもなく奔走した。ごく普通の退職サラリーマンとその妻だった二人にとっては、勝手が違う試練の日々でもあったが、娘をはじめ拉致された人たちを助けたいと思うと「疲れた」などと言っていられなかった。

 会の代表として、滋さんには多くの難しい判断がゆだねられた。
 国民の怒りが高まり、ヘイトに流れてもおかしくない運動に、滋さんは良識の筋を通し、在日朝鮮人への非難をたしなめた。北朝鮮の当局と民衆をはっきり区別し、民衆は自分たちと同じ人権侵害の被害者だとのスタンスを最後まで崩さなかった。また、政府要人や政治家への不満があってもそれを公の場で漏らすことは決してなかった。滋さんの良識と自制は、拉致被害者救出の大義を多くの人々に理解してもらうことにつながったと思う。

 横田夫妻はまた、多忙な中でもタクシーを使わなかった。一緒に電車に乗ったことがある。アイドルなみに顔を知られた夫妻のこと、乗客がすぐに気づいて「応援しています」、「お体に気を付けて」などと声をかけてくる。二人はお疲れだろうに、いちいち「ありがとうございます」、「よろしくお願いします」と丁寧に対応していた。体のあちこちに不調を抱え、高齢を押して全国で1400回超の講演をこなしながら、公共交通機関で移動するという身の律し方に、「古き良き日本人」を見る思いだった。

 横田滋さん、ほんとうにごくろうさまでした。滋さんの拉致問題への真摯な取り組みに心から敬意を表し、ご冥福をお祈りします。


2014年、モンゴルで孫娘のウンギョンさん一家と


 横田滋さんの死を悼むなかで、ながいこと拉致問題の進展がまったく見られないことに国民の怒りが寄せられている。もちろん原因は北朝鮮の不作為だが、その北朝鮮を動かすことができない日本政府にも批判の矛先が向けられている。安倍首相は「この内閣で拉致問題を解決する」と約束をし期待されていただけに失望は大きい。


 いま、「まずは安倍首相が金正恩に会って、首脳同士がサシで話をすべきだ」という声が大きくなっている。

 北朝鮮への圧力強化を一貫して主張してきた安倍首相は、トランプ大統領と金正恩の「蜜月」を受けてコロリと方針を変え、去年5月、金正恩との“前提条件なしでの対話”を呼びかけた。そこから、強硬派も融和派も「とにかく首脳会談を」という流れになってきた。拉致被害者も家族も高齢化し、時間切れへの危機感から首脳会談待望論が出てくるのは理解できる。期待されているのは、2002年の小泉訪朝の再来だろう。しかし、首脳会談はそんなに簡単にできるものではない。


 2002年9月の小泉首相と金正日との首脳会談では、北朝鮮が初めて拉致を認め、翌月、北朝鮮から拉致被害者5人が帰国した。画期的な成果をもたらした電撃訪朝だったが、それは突然実現したのではなく、水面下でのち密な準備作業のたまものだった。 

 小泉首相は首脳会談で拉致問題の解決をはかる決意をかため、外務省のアジア太平洋局長の田中均氏を「密使」として、01年秋から秘密交渉を行わせた。田中氏は、木曜日か金曜日に官邸を訪ねて事前の打合せをし、週末に第三国で北朝鮮側の「ミスターX」と交渉、帰国した後の月曜日か火曜日に再び官邸を訪れて報告をするということを一年間繰り返していた。交渉は二十数回にも及んだ。

 首脳会談の前、日本側が支払う「賠償・補償」の金額を示せと要求する「ミスターX」と、拉致の情報を出せと迫る田中均氏の間で議論が堂々巡りになったとき、「ミスターX」が思いつめたように、こういったという。

 「あなたは更迭されることですむかもしれないけど、自分たちはそんなものでは済まないんです。私は命がけでやっているのです」。

 小泉訪朝は、こうしたぎりぎりの交渉の結果、はじめて実現し、大きな成果を収めたのである。この間、交渉に関する情報が全く外に洩れなかったのは見事だった。

 北朝鮮側は当面、安倍首相に会う気はなさそうだが、もし気が変わって会うとなったとしても、周到な準備がなければ進展は望めない。それは、韓国の文在寅大統領、米国のトランプ大統領が金正恩と一度ならず会ったにも関わらず、何ら具体的な成果を引き出しえていないことでもわかる。北朝鮮から「棚ぼた」は期待できないのだ。


 拉致問題の進展に向けて、小泉訪朝の時のような、地道で不退転の努力が行われているのか。問われているのは、政権の本気度である。

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