高世仁のニュース・パンフォーカス アフガニスタン・リポート③ 中村哲医師の実践に見る異文化との共生
私が去年11月にアフガニスタンを取材した目的の一つは、故中村哲医師の手がけたプロジェクトを見ることでした。
中村哲さんについては、去年、本コラムで触れましたが、1984年から35年もの間、病や貧困に苦しむ人々への人道支援を続け、2019年12月にアフガニスタンで凶弾に倒れた医師です。(高世仁のニュース・パンフォーカスNo.29「不条理な世界を生きる知恵を中村哲医師に学ぶ」https://www.tsunagi-media.jp/blog/news/29)
2000年にアフガニスタンを大干ばつが襲い、飢餓線上の農民が村を捨て、子どもたちが次つぎに命を落とすのを見た中村さんは、医療よりも水の確保を優先すべしと、井戸を掘り、用水路を建設する事業に取り組みました。用水路は、幾多の困難と試行錯誤を経て完成。感慨によって荒地は緑あふれる大地へと変わり、中村さんが亡くなった時点で、65万人もの人々の暮らしを支えるという"奇跡"を成し遂げました。中村さんのこの偉業を支えたのは、福岡市のNGO「ペシャワール会」に寄せられた日本の人々から寄せられた浄財でした。
【ガンベリ沙漠の現在。かつて「死の土地」と言われた不毛の荒れ地は、いま緑に覆われている。(筆者撮影)】
中村さんの死から3年。彼が目指した農村の振興は今どうなっているのか。首都カブールから車で3時間走り、東部ナンガルハル州の州都ジャララバードに向かいました。
【首都カブールからジャララバードに向かう道。途中に険しい岩山がそびえる。(筆者撮影)】
幹線道路には要所要所に検問所があり、治安要員のタリバン兵が通行する車両をチェックしています。米軍駐留時に比べて、治安ははるかに良くなりましたが、時折りIS(イスラム国)による爆破テロがあり、タリバン政権は警戒を緩めていません。
私たちは検問所ごとに、旅券とアフガニスタン外務省発行の取材許可証を見せ、旅行目的や訪問先などを説明してタリバン兵の通行許可を得ます。
ある検問所でおもしろい体験をしました。どこの国から来たかと問われ、「ジャパニ(日本人)」と答えると、自動小銃を持ったタリバン兵がニコッと笑い、「ナカムラ!」と大きな声で叫び返してきて、旅券もチェックせずに通してくれたのです。その後、同じように、タリバン兵から「ナカムラ!」の声がかかり、笑顔で見送られる検問が何カ所もありました。
ジャララバード市内には、去年10月に完成式典が行われた「ナカムラ広場」があります。車通りの多い道路の中央分離帯に、中村さんの笑顔の碑が建ち、夜はライトアップされていました。偶像崇拝を禁止するタリバン政権のもとで、特定の個人の肖像が公の場に掲げられるのは異例中の異例です。中村さんが特別な尊敬を受けていることが分かります。
【ナカムラ広場の碑(筆者撮影)】
アフガニスタンはここ数年、記録的な干ばつに襲われ、今も甚大な被害が出ています。訪れた干ばつの被災地では、乾いた大地がどこまでも広がり、かつてここが一面の緑だったとは、とても信じられません。
【ジャララバード近くの干ばつ被災地。見渡す限り沙漠のような風景がつづく。(筆者撮影)】
ところが、そこからわずか車で1時間の距離にある、中村さんが用水路を拓いた土地はまるで別世界でした。多くの木々が生い茂りオレンジの実がたわわに実っています。畑では小麦の種まきの最中でした。これが、かつてガンベリ沙漠と呼ばれた不毛の荒野の現在です。
【オレンジ畑(筆者撮影)】
村の長老は、中村さんへの感謝を繰り返しながら、「かつては少ない水をめぐって、集落同士に争いが起き、流血を見ることも珍しくなかったが、今はみな穏やかに暮らせているのがうれしい」と語ります。かつて男たちは飢えた家族を食べさせるため、兵士として雇われて戦場に出ましたが、今は銃を農具に持ち替えて畑作業にいそしんでいるといいます。
緑の大地は、人々に平和をもたらしていました。
【「農業ができて家族と暮らせるのが嬉しい」という農民。(筆者撮影)】
「三度の飯を食え、家族と過ごせて、雨露をしのげることができれば、人は争ったりしないものだ」という中村さんの言葉が、現地に来て納得できました。
農村振興のプロジェクトは、いまも現地の人々の手で続けられ、新たな用水路が造られています。工事現場には、自ら労力を提供する多くの農民の姿がありました。水の枯渇で生死をさまよった彼らにとって、用水路はまさに命綱。作業をする表情に士気の高さを感じます。工事を仕切るのは、中村さんに薫陶を受けた”お弟子さん“たち。中村さんの死後は、福岡の「ペシャワール会」とオンラインで頻繁に連絡し合い、むしろ連帯感が強まったといいます。
【急斜面に新たな用水路をひらく難工事の現場(筆者撮影)】
中村さんと長く共に活動してきたエンジニアのディダールさんは語ります。「ドクター中村は教えてくれました。政権は変わる。だが民衆は変わらない。政権を見るな、民衆とともにあればよいのだと。私たちはそれを守って、人々とともに歩みます」
中村さんの突然の死、そして一昨年の政変を経ても、中村さんの志が受け継がれていることを知り、ここにアフガニスタンの"希望"を見る思いがしました。
アフガニスタンには莫大な資金による数多くの「復興支援」プロジェクトが押し寄せましたが、ほとんどが失敗か撤退におわりました。そのなかで、中村哲さんのプロジェクトが大きな成功をおさめ、今も現地で喜ばれているのはなぜでしょうか。
中村さんはこう言っています。
「私たちに確乎とした援助哲学があるわけではないが、唯一の譲れぬ一線は、『現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと』である」
とてもシンプルに聞こえますが、実践するのは簡単ではありません。
欧米系の援助団体が、アフガニスタン難民に襲われる事件が相次いだことがあります。「戦争未亡人の世話」をするプロジェクトが発端でした。イスラム社会では女性の問題は極めてデリケートです。ある女性に家族以外の男性が関心を寄せること自体が禁忌であり、まして外国人が介入してくれば大問題になります。
「『女性の教育と地位向上』の着想は確かに自国ではうけたであろうが、アフガン社会の伝統を彼らは見くびっていた」と中村さんは厳しく批判します。
中村さんはさらに、援助団体にかぎらず、いわゆる国際社会全体が、アフガニスタンの「文化や価値観」を軽視し、見下していると指摘しています。
イスラム圏以外の人にとって異様に見えるものに、ブルカという女性の外出着があります。顔付近にメッシュの窓があって、全身をすっぽりと覆うものですが、これをタリバンが首都カブールで女性に強制しました。欧米では「女性抑圧の象徴」として一大キャンペーンが張られ、フランスでは公共の場所でのブルカ着用を禁止する法律まで可決されました。これについて中村さんは―
「あれは一種の女性の外出着です。普通の女性は必ずこれを着用しています。だから、ブルカ着用は可哀想というなら、日本女性の和服に欠かせない帯を、あんなに体をきつく締めて可哀想に、解放してあげなくてはという類の余計なお世話でもあったわけです。」
【アフガニスタンの女性の外出着「ブルカ」。(朝日新聞記事より)】
近代化された都市部と違い、人口の9割を占める農村の女性たちは自ら権利を求めて叫ぶことはほとんどありません。彼女たちにとって最も過酷な労働は水運びです。干ばつで泉や井戸が涸れ、炎天下、水がめを頭に乗せ、何キロも徒歩で水を探します。薪は高価なので、喉が渇けば川の水をすくって飲み、感染症にかかったりもします。
中村さんが重視するのは「援助する側から現地を見るのではなく、現地から本当のニーズを提言してゆくという視点」です。
「我々が手掛ける用水路はこの水汲み労働と感染症の危険から女性たちを解放した。用水路沿いの地下水位が上がり、涸れ井戸がことごとく復旧し、木が伸び伸びと育つ。家の近くから何度でも水が汲め、育つ木々は薪を提供する。用水路事業を誰よりも支持したのは彼女たちだった。実際、作業中に近所の家から『母からです』と子供たちが茶を届ける光景がしばしば見られた。気軽に異性に話しかける風習がないので、主婦たちが子供を代役に感謝を表したのである。(略)
いつ実現するか分からぬ『権利』よりは、目前の生存の方が重要であったのだろう。必要なのは思想ではなく、温かい人間的関心であった。
全ての者が和し、よく生きるためにこそ人権があるとすれば、男女差を超え、善人や悪人、敵見方さえ超え、人に与えられた恵みと倫理の普遍性を、我々は訴え続ける。」
【用水路。若い夫婦が水を汲んでいた。(筆者撮影)】
欧米をはじめいわゆる国際社会が、タリバンを「邪悪なテロリスト」、その政権を「狂信にもとづく恐怖政治」として全否定していたとき、中村さんは、タリバンが農村の伝統を基盤にすることで、多くの国民に支持される事情を冷静に見つめていました。
「カブール市を除くほとんどの地域は、簡単に言うと田舎、アフガニスタン全体が巨大な田舎国家と言っていいわけです。タリバンというのは、言い方は悪いですが、やや国粋的な田舎者の政権なのです。ということで、中には荒唐無稽な布告もありましたけれども、ほとんどが昔から農村で守られてきた慣習法をそのまま採用した。」
私たちは「自由」、「人権」、「民主主義」などの言葉が、アフガニスタンに戦争をしかけ、"遅れた“アフガニスタンを「近代化」する口実に使われたことを目撃してきました。
そしていま、女性の人権抑圧を理由にタリバン政権への国際制裁が続いています。
中村さんは、女性の権利の問題は、外国からの圧力によってではなく、アフガニスタン人自身で決めていくよう見守るべきだといいます。
「アフガン人にとってイスラム教とは人間の皮膚以上に密接なもので、生活の隅々までを律する精神文化だ。その中に女性の地位向上を肯定する考えがない訳ではない。外圧ではなく、彼女たちが納得できる言葉で語られるべきだ」。
異文化との共生、多様性の尊重などの言葉をよく耳にするようになりました。しかし、その本当の意味を私たちは理解しているでしょうか。「良かれ」と思って、私たちの善悪の基準や価値観を異文化の人々に押し付けていないでしょうか。
中村さんの人道支援の実践は、その貴重な学びを私たちに提供しているように思います。
【ペシャワール会の会員・支援者は、中村さんの死後3年間で1万人増え、2万6千人になったという。新会員には中村さんに学ぼうと高校生など若い人たちも多い。(朝日新聞22年12月5日朝刊)】
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なお、文中の中村哲さんの言葉は、以下から引用しました。
『ほんとうのアフガニスタン』(光文社)、『医者、用水路を拓く』(石風社)、『希望の一滴』(西日本新聞社)、『辺境で診る 辺境から見る』(石風社)、『ペシャワール会会報』)