【高世仁のニュース・パンフォーカス 】「今こそ、ヒロシマ、ナガサキの原点に立ち返る」

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ロシアの軍事侵攻で始まったウクライナ戦争が、新たな局面を迎えています。

 9月30日、ロシアのプーチン大統領は、占領したウクライナ東部、南部の4州を自国に併合すると一方的に宣言しました。そこは本国と一体化した「ロシア」になったというのです。


【朝日新聞10月1日付け朝刊より】


 その上でプーチン氏は「使える全ての力と手段を駆使してこの地を守る」と言います。「全ての手段」には、核兵器が含まれると解釈できます。

【核戦争の脅しをかけるプーチン大統領(TBS「サンデーモーニング」より)】


 ウクライナ4州のロシアへの「併合」は、ウクライナ側からの激しい反発とさらなる反撃を招くだけでなく、核戦争につながりかねない危険な状況をつくりだしています。

【バイデン米大統領は、「プーチンは冗談を言っているのではない」、キューバ危機(1962年)以来の核戦争の脅威に直面していると語った。(NHKニュースより)】


 国連の常任理事国であり、世界でもっとも強大な核戦力を持つ国のトップが、露骨に核の脅しをかける一方で、その同盟者である北朝鮮はこの間、かつてない頻度でミサイルの発射実験を行っています。

 金正恩朝鮮労働党総書記は10月12日に巡航ミサイルの発射を現地指導した際、「核戦力の運用空間を引き続き拡大しなければならない」と述べ、核攻撃手段の開発をいっそう強める意思を示しました。

 国連は機能不全におちいり、北朝鮮の暴走はとどまるところを知りません。

 いま、「核の脅威」はこれまでになく高まっています。 

 ところが私は、この事態にあまり危機感を感じなくなっていました。ニュースで連日、核兵器使用の可能性が報じられ、「台湾有事」、「敵地攻撃能力」などの言葉が飛び交うなか、「核」に対する感覚がマヒしてしまったのかもしれません。

 そのことに気づかせてくれたのは、ある写真展でした。

 私は9月下旬から、故郷の山形県を半月以上かけて自転車で旅をしましたが、酒田市で、昭和を代表する写真家、土門拳の記念館に立ち寄る機会がありました。そのとき開催されていた企画展が「2つのまなざし 江成常夫と土門拳―ヒロシマ・ナガサキ」です。

【企画展「2つのまなざし 江成常夫と土門拳―ヒロシマ・ナガサキ」会場(酒田市土門拳記念館)筆者撮影】


 土門拳は戦後12年たった1957年に広島に入り、被爆の実態に衝撃を受けて撮影に没頭します。翌年写真集『ヒロシマ』を発表し、国内外に大きな反響を呼びました。

【「十三年寝たきりの人」(土門拳『生きているヒロシマ』)より】

【「被爆者同士の結婚」(土門拳『生きているヒロシマ』)より】


 土門の写真集に影響を受けた一人が、当時20代前半だった江成常夫です。戦争をテーマにした写真で知られる江成は、1985年に初めて広島を訪れ、被爆をテーマに撮影を始めます。

 土門は徹底して被爆した人物を追い、江成は遺品や遺構などの「モノ」にこだわるという全く異なる表現方法でしたが、二人の写真から伝わってくる原爆の悲惨さに私は圧倒されました。

【「高熱を受け変形したガラス瓶」(江成常夫『被爆』より)】


 例えば、江成の「敏行さんの革靴」という写真があります。

【「敏行さんの革靴」(江成常夫『被爆』より)】

 

 これは広島の爆心地から800mにいた中学2年生の横田敏行さん(14)が被爆したときに

履いていた靴です。

 「全身火傷を負ったが自宅に帰りたい一心で、川沿いを歩き、途中出会った知り合いの先生に助けられ、市北部の自宅に帰り着いた。『よう帰った!』母親あきみさんと伯母、妹の晴子さん(10)は涙で迎えたが、敏行さんは体を真っ黒に焼かれ、顔は腫れて目はつぶれ、腕は皮膚がむけて垂れさがっていた。傷口にすぐうじがわくのを晴子さんが一生懸命取り除き、母あきみさんと伯母が寝ずに看病に努めた。しかし、被爆3日後、敏行さんは苦しみぬいて息を引き取った。」(写真集『被爆―ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』より)

 一つひとつの「モノ」に、言葉にできない悲惨な原爆の実態が投影されているのです。

 意外だったのは、土門拳自身が1957年にはじめて広島に足を踏み入れるまで、原爆を「忘却のかなた」においてきたという告白です。

 「ぼくたち自身も『ヒロシマ』は、もはや過去のこととして忘却のかなたにおいてきた。(略)十三年前の古い出来事である『ヒロシマ』は、今日ただ今のなにかに結びつかない限り、今さらマス・コミュニケーションの中に姿を現すことはない。」

 その上、ビキニ環礁はじめ「相次ぐ大規模な原水爆実験、原子力発電、大陸間弾道兵器、人工衛星などのニュースは、十三年前の『ヒロシマ』などは、いよいよもって素朴きわまる『原爆の古典』に追いやってしまったのである。」

 広島で土門は、自らをきびしく叱咤します。

 「ぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは『ヒロシマ』を忘れていたというより、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。」と。(土門拳「はじめてのヒロシマ」より)

 当時ジャーナリズムの第一線で社会問題をするどく取材していた土門拳にして、こんな認識だったとは・・。そして私たちから見れば戦後たったの十三年しかたっていないのに、被爆の「風化」が進んでいたことに驚きます。

 一念発起した土門拳によるヒロシマの撮影が、「忘却」されていた被爆の悲劇に光をあて、こうして私の目にも触れることになったわけです。あらためて写真の伝える力を感じ、感謝の念もわいてきました。

 写真展のちょうど1週間後、私は埼玉県東松山市の「原爆の図 丸木美術館」を訪れました。

 画家の丸木位里・丸木俊夫妻は、原爆投下直後の広島にかけつけ、戦後の米軍占領下、原爆被害の報道が厳しい検閲を受けていた時期に被爆をテーマに絵を描きはじめました。「原爆の図 丸木美術館」は、丸木夫妻が、共同で制作した《原爆の図》を、誰でもいつでも見ることができるようにとの思いで建てた美術館です。

 この美術館には以前も訪れたことがありますが、土門拳記念館での写真展を観たあとの今回は、私の心に響くものが違いました。

 ナイフや銃で殺されるのも、原爆で殺されるのも人が死ぬという事実は同じです。しかし、一瞬にして、数千度の熱線、殺人的な中性子線そして激烈な爆風が、すべての生き物と文明を根こそぎ抹殺する核兵器の恐ろしさは異質なものです。人間がこんな兵器を作り使ったことを信じたくない。10枚を超える巨大な屏風絵は、その罪深さを鬼気迫る悲しみとともに訴えてきます。

【「原爆の図」3水より(丸木美術館にて筆者撮影)


水、水。

人々は水を求めてさまよいました。

燃える炎をのがれて、末期の水を求めて─

傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。

水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、

炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、

のがれのがれて、ようやくここまできたのです。

乳をのませようとしてはじめて、

わが子のこときれているのを知ったのです。

20世紀の母子像。

傷ついた母が死んだ子を抱いている。

絶望の母子像ではないでしょうか。

母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。(第三部 水より)


 唯一の被爆国でありながら、日本は核兵器禁止条約に署名せず、広島出身の岸田文雄首相のもとでも、第1回締約国会議にオブザーバー参加すらしていません。現在の日本ではヒロシマ・ナガサキの被爆はまさに忘却のかなたにあるようです。

 いま、核兵器が戦争の一手段として平然と論じられています。実際に「使える核兵器」としての小型の戦術核兵器の開発に拍車がかかり、通常兵器の延長とみなされて核の使用へのハードルがどんどん低くなっています。

 しかし、小型だから使っていいということにはなりません。戦術核でもヒロシマ型より破壊力の大きなものもあり、またいったん核兵器が使用されれば、その報復を含むエスカレーション(戦争拡大)は、私たちの予想を超える破局をもたらすでしょう。

 なにより大切なのは、核兵器の兵器としての軍事的効率ではなく、実際に使われたときの人と文明に与える被害の深刻さに目を向けることだと思います。

 原爆投下から77年が経ちましたが、私たちは先人たちの貴重な努力によって、写真や絵画のほか被爆証言の口承、記録映像や文学などさまざまな手段で被爆の実態を知り、想像することができます。

 「核のタブー」がなくなりそうな今だからこそ、日本は唯一の被爆国という原点にもう一度立ち返り、核兵器を使う側からではなく、使われた側の立場から世界に発信していくことが求められるのではないでしょうか。

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