【高世仁のニュース・パンフォーカス】「不条理な世界を生きる知恵を中村哲医師に学ぶ」
「命にかかわる危険な暑さに注意してください」連日、天気予報がこう呼びかける猛暑ですが、お元気でしょうか。
こんななかでも、あいかわらず日本でも世界でも目をそむけたくなる出来事が絶えません。とりわけウクライナからは、悲惨なニュースがひっきりなしに報じられ、テレビを観るだけでつらくなります。
【ウクライナでは家族の離散が日常になっている(ユニセフの動画より)】
「共感疲労」という言葉があります。
介護スタッフなどによく見られ、相手への共感が過ぎて疲弊してしまい「燃え尽き症候群」に陥りやすいと言われています。
さらに「共感うつ」というのもあるそうです。
共感性がとても高い人の場合、いろいろな出来事に大きく感情を揺り動かされ、心身の調子を崩して「うつ」状態になるのです。
「うつ」の原因には三つあると言われます。自分を責める「自己非難」、自分自身をあわれむ「自己憐憫」、そして他人をあわれむ「他者憐憫」です。
自分と関係ないことには一切興味を示さないという人ばかりでも困りますが、共感も度が過ぎれば自らが病んでしまいます。
理不尽さでいっぱいに見えるこの世の中を、私たちはどんな心構えで生きればよいのでしょうか。
他者の不幸を「自分事」としてとらえる――これは健全な市民社会に求められる態度です。そこから、真面目な人ほど、「他人の不幸には共感すべきであり、共感して心が乱れるべきである」という思い込みをしがちになります。
しかし、不幸な人を見たり、悲惨な出来事を知ったときにすべきことは、その不幸や悲惨を無くすか軽減するための行動であって、共感しすぎて心が乱れ、自分も不幸になることではないでしょう。
メンタルヘルスに詳しい方から教わったのは以下のことです。
「健全な市民にはもちろん適度な共感性は必要だが、共感しすぎて自分まで不幸になるのは、世界に不幸な人を一人増やすだけで、不幸を減らすことにはならない。あなたがすべきことは、不幸を少しでも減らす具体的な行動をすることであって、それができないのなら、そのことは忘れて、せめて自分が不幸になるのは避けるように」
たしかに、共感しすぎて疲れたり「うつ」になったりするよりも、人間として適度な共感の範囲にとどまりながら、自分にできる行動をすることの方が有効だというのは、実に理性的な考え方だと思います。
では自分にできる具体的な行動にはどんなものがあるでしょうか。
例えば、ウクライナでの悲惨な事態については―
#ロシア大使館への抗議デモに行く
#ウクライナへの救援活動に寄付する
#SNSでのキャンペーンに賛同する。SNSで発信する
#知り合いとウクライナを話題にして語り合う
#ウクライナ支援のTシャツを着る
#祈る
実はこれは私がやっていることです。ながく報道に携わってきたこともあって、デモや集会に行くこともおっくうではありません。でも、そんなのできないよという方も多いでしょう。それに不幸はウクライナだけではなく、この世に満ちています。
いま『荒野に希望の灯をともす』という映画が上映中です。
35年もの間、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続け、2019年12月にアフガニスタンで凶
弾に倒れた医師、中村哲さんの生き方を描いています。私も中村哲さんを取材し、その人
柄にふれて感銘を受けた一人です。
【中村哲医師は自ら現場の作業に従事した『荒野に希望の灯をともす』より】
中村さんは、大干ばつで飢餓が蔓延するなか、医療では人々を救えないと、井戸を掘り、用水路を建設する事業に取り組みました。7年にわたる難工事を経て水路は完成。荒地は一面の緑あふれる大地となり、65万人もの人々の暮らしを支えています。
難民たちは故郷に戻り、戦闘員は銃を鍬に替えて農作業にいそしんでいます。
【人々は荒地となった故郷を捨てた(映画より)】
【水路によって緑の大地に(映画より)】
まさに人々を不幸から救うすばらしい行動です。中村哲さんの生き方から何を学べるのでしょうか。
とてつもない大事業をなしとげた中村さんですが、好きな言葉は、意外にも「一隅(いちぐう)を照らす」だそうです。隅っこの一画を明るくするという意味です。
天台宗の開祖、最澄の言葉で、もとになったのは、唐の時代のこんな逸話だそうです。
むかし、魏王が言った。「私の国には直径一寸もの玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」。すると、斉王が答えた。「私の国にはそんな玉はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と。
中村哲さんはこう言っています。
「一隅を照らすというのは、一つの片隅を照らすということですが、それで良いわけでありまして、世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。
それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人としての最善を尽くすことではないかというふうに思っております。
今振り返ってつくづく思うことは、確かにあそこで困っている人がいて、なんとかしてあげたいなあということで始めたことが、次々と大きくなっていったわけですけれど、それを続けてきたことで人間が無くしても良いことは何なのか人間として最後まで大事にしなくちゃいけないものは何なのか、ということについてヒントを得たような気がするわけです。」(中村哲『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』羊土社より)
「一隅」とは仕事場や家庭かもしれないし、趣味のサークルや習い事の場にあるのかもしれません。大それたことを考えずとも、自分の持ち場で少しでも人のためになればとの願いを込めて、しっかりと毎日を生きる。その積み重ねが大事だというのです。
アフガニスタンの田舎の水路は、ほんとうの平和とは何だろうかという問いを世界になげかけています。
よくよく考えてみると、世界はすべてつながっていることに気づかされます。
私にとっての「一隅」とは何か、この映画は、自分の生き方をも見直すきっかけになりました。
*本稿執筆にあたっては、岡野守也『いやな気分の整理学―論理療法入門』(NHK生活人選書)を参考にしました。