【高世仁のニュース・パンフォーカス】「プーチンとはいったい何者なのか?」その2
ロシアがウクライナに侵攻し始めて6月24日で4か月になりました。
【戦争によるウクライナのインフラ被害の総額について、6月8日の時点で1039億ドル(14兆円あまり)に上り、道路、空港施設、医療機関、学校など幅広い被害が確認された(キーウの経済大学)。ウクライナの経済的な損失は、5月下旬の時点で、GDP(国内総生産)の5倍にあたるとの指摘もあり被害が拡大し続けている。(NHKニュースより)】
プーチン大統領は6月30日、記者団の質問に対して「(ウクライナへの「軍事作戦」の)期限について語る必要はない」と述べました。戦闘の終結に向けた道筋は全く見えません。
本コラムの第26回では、プーチンの人物像を見る上で、1999年の首相就任直後のアパート連続爆破事件に注目し、彼が権力の座に駆け上がるための謀略だった可能性が高いとの私たちの取材結果を紹介しました。
目的のためには謀略もためらわず、人命への配慮もないきわめて冷酷な人格が浮かび上がってきます。
プーチンは2000年にロシアの大統領になりますが、そこから彼はさらなる野望に突き進みます。プーチンは二つのことを目指します。
一つは権力を自分ひとりに集中する個人独裁への道。そしてもう一つは、強いロシアを取り戻す歴史的使命の達成です。
メディアはプーチンが個人独裁化のために真っ先に攻撃の手を向けた分野でした。
大統領に就任してわずか1か月後、自由な報道姿勢で知られていたテレビ局NTB(エヌテーヴェー)のオーナーを横領と詐欺の疑いで逮捕。彼を釈放する条件としてNTVの株式を国営企業に譲らせ、政府の支配下に置いたのです。
【NTVが自由な報道をしていたころのニュース。チェチェン紛争の現場から現実を克明に伝え、エリツィン政権の支持率が4%まで急落した(NHKスペシャル『言論を支配せよ~プーチン帝国とメディア』08年5月放送より)】
有力紙は次々と政権と関係が深い企業の傘下に収められ、マスメディア全体が事実上、プーチンのコントロール下に置かれました。
私は08年に「プーチン政権の闇」という番組を制作しましたが、ロシアのメディア界ではプーチン批判がタブーになっており、取材を始めることも危ぶまれるほどでした。
当時、ロシアの取材ビザを得るには、ロシアで免許をもつメディア企業かコーディネート会社に私たちの記者証を発給してもらう必要がありました。しかし、依頼した会社はみな断ってきました。ある会社はメールで以下のように伝えてきました。
「アパートの爆破含め、プーチン政権の琴線に触れる部分で、ロシア取材が行われたとなれば、ビザ・記者証を発給した弊社がおとがめを受ける」、その結果「弊社の社員が路頭に迷う」ことになるというのです。
私たちは正規の手続きをふまずにロシアに入国しましたが、何人もの取材対象者からインタビューを拒否されました。アパート連続爆破事件を追及したジャーナリストや政治家がすでに何人も殺されていましたから、彼らの恐怖心は理解できます。
プーチン政権のメディア弾圧はその後いっそう強まり、今回のウクライナ侵攻を「特別軍事活動」と呼ばずに「侵攻」や「戦争」と表現したメディアを容赦なく閉鎖に追い込んでいます。
【去年ロシアのジャーナリスト、ドミトリー・ムラトフ氏がノーベル平和賞を受賞したが、6月20日、ムラトフ氏はそのメダルを競売にかけ、落札額約140億円をウクライナの子どもたちの支援に寄付すると発表した。彼が編集長をつとめる独立系紙『ノーバヤ・ガゼータ』は3月に活動停止に追い込まれている。(テレビ朝日ニュースより)】
プーチンは周到に自分の権力に挑戦しそうな人物を「消して」いきました。リベラル派であろうが右派であろうが、カリスマ性をもつ政治家は、恭順の意を示さないかぎり、死亡するか、別件で逮捕されるか、海外へ逃れるかの道をたどります。
オリガルヒと呼ばれる新興財閥の有力者も、プーチンに従わないものは追放され資産を没収されました。かわりに登場してきたのが、プーチンがかつて長官をつとめたKGBなど治安・諜報機関の出身者やプーチンの側近らのグループです。
その典型例が「ユコス事件」でした。ユコスはロシア国内の石油生産量の20%を占める最大級の民間企業でしたが、03年10月、「石油王」と呼ばれたCEOのホドルコフスキーが所得税、法人税等の脱税及び横領容疑によりロシア政府に逮捕されます。ユコスは破産に追い込まれ、その主要な子会社はプーチン側近が会長をつとめる国営企業に買収されました。

【かつてのカリスマ的「石油王」ミハイル・ホドルコフスキー。10年の獄中生活を経て英国に亡命した。(wikipediaより)】
プーチンが石油・ガスなどの資源企業を国営企業の支配下に置いた直後、幸運にも原油価格が急騰し(1998年の1バレル10ドル以下から08年には一時140ドル超に)、プーチンの独裁化を後押ししました。
プーチンは子ども時代からスパイにあこがれ、9年生(日本の中学3年に相当)のころKGBの支部を直接訪れ、どうやったらスパイになれるかを聞いたという逸話があります。きっかけは、スパイの映画を観て、たった一人の力で、大きな軍隊をしのぐ成果を上げられることに感動したことだったといいます。一人だけで大きな目標を遂げる志向は、そのころから育まれていたのかもしれません。
個人独裁化を強めたプーチンはさらに、偉大なロシア復興を担う歴史的使命を自覚するようになります。
05年、大統領二期目に入ったプーチンは、11月7日のロシア10月革命記念日を廃止しました。
ソ連時代は5月9日の対ナチスドイツ戦勝記念日と並ぶ、いやそれ以上に重要な記念日で、ソ連解体以降も「和解と合意の日」と名称を変え祝日として残されてきたのですが、プーチンはこれを廃止し、代わりに3日違いの11月4日を「国民統合の日」として新たな祝日にしたのです。この由来は1612年までさかのぼります。
16世紀末、ロシアは国が乱れ、1610年にはポーランドにモスクワを占領されました。ロシア人たちがポーランドからモスクワを解放したのが1612年11月4日とされています。この日付自体は、多くのロシア人にとってなじみのないものでしたが、プーチンは革命記念日に代わる重要な祝日にしたのです。
これによってロシアの二大祝日、対独戦勝記念日と「国民統合の日」がいずれも「外敵」を打ち破った日になりました。
そしてプーチンはある歴史上の人物に自らを重ね合わせます。17世紀末から18世紀にかけて領土を拡大し、ロシアを大国にしたピョートル大帝です。大帝はプーチンが「世界で最も尊敬する指導者」です。

【ピョートル大帝(wikipediaより)】
ピョートル大帝生誕350年の6月9日、プーチンは大帝の戦争についてこう語りました。
大帝がスウェーデンから奪ったように見える土地は「スラブ系の人々がずっと住んでいてその領土はロシアの支配下にあった。大帝は領土を取り返し国を強化したのだ。そしていま、我々も領土を取り返し国を強化する番だ。」
その上で「350年前とほとんど何も変わっていない」として、自らをピョートル大帝になぞらえ、ウクライナ侵攻を正当化したのです。
【ピョートル大帝生誕350年記念日に語るプーチン(テレビ朝日ニュースより)】
プーチンは、財産や地位がほしいだけの独裁者ではありません。自分が歴史的使命を帯びて行動していると信じているのです。とくに注意すべきは、プーチンが「外敵」と戦うことでロシアの強大化を実現しようと考えていることです。
これは、プーチンがチェチェン侵攻(1999年)、グルジア侵攻(08年)、クリミア半島併合(14年)、そして今回のウクライナ侵攻と、ひんぱんに軍事侵攻、戦争を引き起こしてきた思想的な背景になっているように思われます。
偉大なロシア復活という歴史的使命を自認するプーチンが、ウクライナ侵攻の目的を350年前と同じく領土拡張にあると考えているとすれば、簡単にウクライナから手を引くことはありえないでしょう。
目的のためには手段を選ばない政治手法を考え合わせると、いざとなれば核兵器の使用もありうると思います。
プーチンは21世紀最悪の独裁者の仲間入りをすることになるでしょう。
*本稿執筆にあたっては、ドキュメンタリー”Putin’s Way” (米2015)、”Putin’s Road to War” (米2022)、朝日新聞国際報道部『プーチンの実像』(朝日新聞出版2015年)を参考にしました。