【高世仁のニュース・パンフォーカス】「自由を求めて早稲田が燃えた日々―「川口君事件」を振り返る」

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12月10日、ノルウェーのオスロで、ノーベル平和賞が2人のジャーナリストに授与されました。ロシアの独立紙の編集長、ドミトリー・ムラトフさんとフィリピンのネットメディアの代表、マリア・レッサさんは、いずれも強権的な政権から厳しい弾圧を受けながら自由のために闘ってきました。

(この2人については本コラムのNO.20で紹介しました。ご参照ください。)


【ノーベル平和賞の授与式を報じた「朝日新聞」記事(12月11日付朝刊)】

 

 平和賞を選考したノーベル賞委員会は、いま世界で「民主主義と報道の自由がますます逆境に直面」していると強い危機感を示しています。。

 

【ノーベル平和賞選考委員会のライスアンネシェン委員長は「2人の受賞により、いま大切なものが失われつつあることに気づいてほしい」と語った。(NHKニュースより)】

 

 国際人権団体「フリーダム・ハウス」は、「自由な国」の数が過去15年で最低になったと警鐘を鳴らしています。

 

【緑が「自由な国」、青が「自由のない国」、黄色が「部分的に自由な国」。国民の政治的権利や社会の自由度などを基準に195カ国を評価した。(フリーダムハウスの年次報告書「世界の自由度 2020」HPより)】

 

 ただ、自由が奪われつつあるなどと聞いても、日本に暮らす自分とは縁遠いことのように感じてしまいます。ところが先日、1冊の本を読んで、実は私自身がかつて、自由のために闘っていたことを思い出しました。

その本とは、樋田毅著『彼は早稲田で死んだ~大学構内リンチ殺人事件の永遠』です。

 

【文藝春秋、11月刊】

 

 今ではほとんど知られていませんが、半世紀前、早稲田大学で、自由を求め、暴力に対して立ち上がった若者たちがいました。そして、私もその一人だったのです。

 

    私が早稲田大学に入学した1972年(昭和47年)のこと。11月8日、第一文学部(一文)の2年生、川口大三郎君が過激派集団の「革マル派」(日本共産主義者同盟・革命的マルクス主義派)に集団リンチを受け虐殺されるという陰惨な事件が起きました。この「川口君事件」に早大生は憤激し、革マル派の暴力を糾弾して自由な学園を取り戻そうと立ち上がりました。本書は、この運動のリーダーだった樋田さんが、半世紀を経て当時を振り返ったルポです。

 

    私が入学した頃、学生運動は退潮し始めていましたが、それでも多くの大学で、「共産主義革命」を呼号する左翼の過激派組織が、学生自治会などに影響力をもっていました。早大は革マル派の最大拠点で、学生自治会や早稲田祭を牛耳ることで莫大な資金を吸い上げていました。例えば文学部では、一文と二文合わせて6500人の学生たちから、大学当局が毎年一人1400円の自治会費を授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会執行部に渡していました。これだけで900万円超にもなります。

  当時、過激派は多くの組織に分裂し、敵対する組織を「殲滅」するため「内ゲバ」と呼ばれる武闘を繰り広げて、多くの死傷者を出していました。革マル派は、拠点の早大の支配を続けるため、彼ら以外の政治組織が学内に存在することを認めません。特定の政治組織に属していなくても、少しでも革マル派に批判的だとみられれば、「敵」としてにらまれます。革マル派がキャンパス内で、学生や教員を脅迫し、暴行するという光景が日常的に見られるようになっていました。革マル派の暴力を、大学当局が見て見ぬふりをするなか、登校できない学生が、当時文学部だけで30~40人もおり、中には退学に追い込まれた人もいました。

 

 70年には、革マル派に暴行を受け、登校できなくなった二文の学生、山村政明さんが、文学部キャンパスの隣の穴八幡神社境内で焼身自殺する悲劇が起きています。

 山村さんは「抗議・嘆願書」に悲痛な思いを書きのこしていました。

 《死を目前にした私が、最も切実に望むのは次のことである。革マルの暴力支配と、大学当局の冷淡な措置により、経済的困窮の中で留年、退学に追いこまれながら苦闘を続けている学友たちに明るい光のさすことである。彼らが、暴力支配による身体生命の危険、経済的な生活破算から免がれ、学生としての正当な権利を回復することである。

 二文のすべての教職員の方々、及び学生諸君、彼らの正当な闘いに理解と支援を与えて欲しい。暴力を一掃し、よりよき学園を建設していって欲しい。》(山村政明遺稿集『命燃え尽きるとも』より)

 今では信じられないでしょうが、東京のど真ん中に、暴力が支配する無法地帯があったのです。

 

【早稲田大学本部キャンパス(筆者撮影)】

 

 そんな中に起きたのが、政治党派に属さない一般学生、川口君の革マル派による虐殺でした。しかも川口君は、文学部自治会の部屋で、自治会の役員たちからリンチを受けていたのです。

 私たち学生は大きな衝撃を受け、怒りの声をあげました。当時の日記を読みかえすと、私のクラスでは自発的に集まって討論を行い、虐殺を糾弾する決議をあげ、さらにその決議をビラにして配っただけでなく、立て看板にして大隈銅像の下に掲示しました。キャンパスでは連日、学生たちが寄り合って大集会が開かれ、自然発生的にデモが始まって構内を練り歩くなど、「蜂起」という表現がふさわしいほどの盛り上がりでした。おそらく前にも後にも、日本の大学で、この時ほど激しく学生たちが自主的に立ち上がった運動はないでしょう。

 

【一文の学生大会で、学生自治会の革マル派執行部をリコールし、新たな臨時執行部を選出したことを伝える朝日新聞記事(1972年11月29日付)】

 

 大集会では活発な議論が交わされ、暴力を根絶し、自由な学園を取り戻すにはどうするかが話し合われました。その結果、自治会から革マル派執行部をリコールし、自分たちの手で自治会を再建することになり、各学部で学生大会を開くことが決まりました。慌てた革マル派は、これを阻止するために全国動員をかけて早大に押し寄せました。しかし、私たち早大生はスクラムを組んで、ヘルメットをつけた完全武装の革マル派戦闘部隊に素手で対峙し、学生大会を守り抜きました。

 一文の学生大会を報じた当時の新聞はこう書いています。

 《革マル派はこの日朝から「学生大会粉砕」を叫んで約四百人が構内で再三デモを行い、大会阻止を狙ったが、第一文学部の「学生大会」を支援する他学部の学生約二千人に阻まれた。この際のもみ合いで、数人の負傷者が出た。》(『朝日新聞』1972年11月29日朝刊)

 

 革マル派と対峙し、にらみ合うことはたびたびありましたが、たいていは数で私たちが勝り、革マル派を封じ込めていました。革マル派が、共産主義の革命歌「インターナショナル」で気勢を上げると、早大生の中から校歌「都の西北」の大合唱が沸き起こり、キャンパスに響きわたったことがありました。私たちが一つになって自由な早稲田を作るんだという決意をみなで固める感動的な光景でした。

 早大生のこの闘いを率いたのが、私と同じ1年生の樋田毅さんでした。革マル派からの脅しや暴力に屈せず、実感のこもった分かりやすい言葉で熱く訴える樋田さんは絶大な人気を集め、革マル派がリコールされた後の一文自治会臨時執行部の委員長に選ばれました。

 

 いったんはほぼすべての学部の自治会から革マルをリコールして新生自治会を立ち上げ、学園の民主化は成功したかに見えました。ところが革マル派は、私たちのこの運動を残忍な暴力でつぶしにかかります。樋田さんの仲間たちは次々に襲撃を受けて負傷し、闘いから脱落していきました。大学に絶望して退学する人もいました。革マル派の「軍事力」とこれを傍観する大学当局の不作為によって、キャンパスはふたたび暴力で支配されはじめたのです。

 それでも樋田さんは、あくまで非暴力をつらぬこうとしました。目指すべきは、「言葉の力を信じて、人間の善性を信じて、相手を説得する」「寛容な心」による運動だと樋田さんは信じ、学生たちもそんな樋田さんを信頼して支持していたのです。

 しかし、革マル派による暴力で犠牲者が増えるにつれ、「暴力に対抗するには、われわれも自衛のため武装するしかない」とする声が高まり、樋田さんは次第に孤立していきます。一部の早大生たちが、実際にヘルメットをつけ武装して戦いますが、戦闘に慣れた革マル派にかなうべくもなく、叩きのめされます。革マル派と敵対するさまざまな過激派も早大にやってきて武闘を繰り広げるようになると、早大生のあいだに「どっちもどっち」との見方が広がり、学園を民主化しようとの訴えは支持を失うようになります。暴力に対して暴力で闘った結果、運動は低調になり混迷を深めていったのです。

 73年5月、ついに樋田さん自身が、革マル派に鉄パイプで襲われ重傷を負わされます。大学に通うことすら困難になり、心身ともに傷ついた樋田さんは闘いの場から退き、運動は大きな犠牲を払って終焉しました。

 

 樋田さんは強い挫折感を持ち続け、当時を見つめなおすのに長い時間がかかったと言います。私にも大きな敗北感が残り、そのために「川口君事件」を振り返ることを避けていました。今回、樋田さんの本のおかげで、はじめて半世紀前を俯瞰できたように思います。そして、私たちがあの時早大で体験したことに、現代のさまざまな課題に共通する普遍的な意味を見出せたような気がするのです。

 

 「川口君事件」で、私たち学生の怒りは革マル派だけでなく大学当局にも向かいました。当局は大学構内で殺人事件まで起こした革マルの暴力に目をつぶり、事実上容認してきたからです。学生たちが革マル派幹部を追及する集会を徹夜で開いたときには、大学当局は機動隊を学内に入れて革マル派を「救出」して学生たちを憤激させました。

 

【大学当局による革マル派救出を伝える『朝日新聞』72年11月14日付夕刊記事】

 

 当局と革マル派は裏でつながっているのでは、と多くの学生が思うほど、その癒着ぶりはひどいものでした。この構造は、児童・生徒がいじめで自殺に追い込まれた事件で、「いじめはなかった」と見て見ぬふりをする学校や教育委員会の姿勢に通じるように思います。こうした事なかれ主義が、今もさまざまな場所で人権を踏みにじる行為を許しているのではないでしょうか。

 早稲田大学が革マル派との腐れ縁を絶って暴力支配を脱したのは、川口君の死から25年も経ってからでした。

 

 運動の挫折後、樋田さんは変装するなどして革マル派の目を避けながら大学に通い、卒業後、朝日新聞社の記者になりました。そして87年、阪神支局の小尻記者が散弾銃で殺害された「赤報隊」事件の取材を命じられ、16年にわたって犯人を追い続けました。早大の川口君と朝日新聞社の小尻記者、ともに暴力によって絶たれた二人の命について樋田さんは考え続けています。

 樋田さんは本書を、「不寛容に対して私たちはどう寛容で闘い得るのか」と問題を提起して締めくくっています。私は半世紀前の自分たちが、これまで取材したことがある香港やミャンマーで闘いつづける若者たちの姿と二重写しになる感覚におそわれました。いま彼らの自由を求める声は、むき出しの暴力によってかき消されようとしています。

 

【ミャンマーでは2月のクーデター以降、軍によって1346人が殺害され、8100人が逮捕、起訴されたという(政治犯支援協会のHPより)】

 

 理性と非暴力にもとづく訴えが、いかにして暴力を克服できるのか。これは、自由がますます失われつつある世界につきつけられた課題です。

 

 日本だけでなく世界各地で、理不尽な人権侵害と闘う人々がいます。その思いをより自分事として考えるためにも、半世紀前の「川口君事件」を語りついでいこうと思います。

 

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