【高世仁のニュース・パンフォーカス】「勇敢なジャーナリストにノーベル平和賞」

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10月8日、今年のノーベル平和賞が発表され、「表現の自由のための勇敢な闘い」を続けてきた二人のジャーナリストに授与されることになりました。

 ロシアの独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラトフ編集長(59)とフィリピンのインターネットメディア「ラップラー」のマリア・レッサ代表(58)です。いずれも身の危険をおかして、強権的な政権への批判を続けてきました。


【朝日新聞 10月9日朝刊】


 なぜ、平和賞がジャーナリストに?とちょっと不思議な感じがしますが、これまでの平和賞の選考を見ると、「平和」を「戦争がない状態」という軍事的な意味だけで定義するのではなく、一人ひとりが安心、安全に暮らせる「人間の安全保障」という広い視点でとらえているようです。ちなみに、去年の平和賞は、、緊急時に人々の命を救う食料支援を届ける世界食糧計画(WFP)に贈られています。

(本コラムNo.10「WFPのノーベル平和賞受賞によせて~食料は平和への道」https://www.tsunagi-media.jp/blog/news/10を参照)

 それにしても、ジャーナリストにノーベル平和賞が授与されるのは異例で、1935年、ドイツの反戦ジャーナリスト、カール・フォン・オシエツキーの受賞以来のことです。

 オシエツキーの受賞が発表されたのは、彼がナチスの強制収容所に入れられている時でした。オシエツキーはナチスから辞退を強要されましたが、結局受賞し、ゲシュタポ(秘密警察)立ち合いのインタビューで「軍備競争は狂気だ」と信念を述べました。ノルウェーを占領したドイツは、報復としてノーベル平和賞の選考委員を全員逮捕したといいます。

 オシエツキーの平和賞受賞が決まった1935年といえば、ヒトラーの独裁が確立し、ベルサイユ条約に違反してドイツが再軍備に舵を切った年でした。賞の選考には、迫りくる戦争への大きな危機感が反映しています。

 今回の平和賞を選考したノーベル賞委員会は、「民主主義と報道の自由がますます逆境に直面する世界で、2人は理想のために立ち上がったジャーナリストの代表者だ」とたたえ、世界中で市民の民主的な諸権利が急速に後退していく趨勢に警鐘を鳴らしています。


【平和賞受賞者を発表するノルウェーのノーベル賞委員会ベリット・ライスアンデシェン委員長(NHKニュースより)】


 今年の二人のジャーナリストの平和賞受賞はきわめて時宜にかなったものであり、高く評価したいと思います。私はこの二人と彼らのメディアには以前から尊敬の念をもっており、受賞のニュースは個人的にもうれしいものでした。 


【マリア・レッサ氏 NHKニュースより】


 マリア・レッサ氏が2012年に立ち上げた「ラップラー」はフィリピンを代表するニュースポータルサイトとして、「アジアのトランプ」とも呼ばれるドゥテルテ大統領の強権政治に真っ向から対抗してきました。

 とくにドゥテルテ氏による「麻薬撲滅」キャンペーンが、多くの市民を司法手続きなしに「処刑」する非人道的な作戦であることを、「ラップラー」は、具体的な事実をもって報道し、批判してきました。


【ドゥテルテ大統領。6月、新型コロナウイルスの「ワクチンを打つか、投獄されるかを選ぶことになる」と相変わらずの強権ぶり。(TBSニュースより)】


 ドゥテルテ大統領は「ラップラー」を目の敵にし、大統領官邸の記者会見から締め出しました。代表のレッサ氏は、脱税はじめ10の容疑で起訴され、2度逮捕されています。容疑はすべてでっち上げであり「憲法の下の権利を主張し闘い続ける」とレッサ氏は主張し、屈することなく政権に立ち向かっています。 

 フィリピンのメディア弾圧は激しさを増し、去年5月には、同国最大の民間放送局ABS-CBNが、テレビ、ラジオとも放送を停止せざるをえない事態にいたりました。政権への批判的な報道が大統領の怒りをかったため、放送免許の更新が拒否されたのです。

 こうした露骨なメディアへの圧力があるほか、ジャーナリスト個人は直接的な暴力の危険にもさらされています。この国では、メディア関係者が銃撃、脅迫、暴行を受けることが珍しくなく、ドゥテルテ政権発足後、22人が殺人事件で命を落としています。

 厳しい環境のなかで報道を続けるレッサ氏らの努力は、国際的な注目を受け、先月15日、国際刑事裁判所(本部=オランダ・ハーグ)は、ドゥテルテ政権が「麻薬戦争」として進めた「容疑者」の超法規的殺害について、「(2016年の政権発足の)最初の3年間だけで1万2000人から3万人を殺害した」とし、「人道に対する罪」の疑いで正式に捜査することを承認しました。

 レッサ氏らフィリピンのジャーナリストたちの勇気ある闘いと、国際的な圧力・介入がうまくかみ合うことで、同国の人権状況が少しでも改善されることを期待します。

 ロシアのムラトフ氏は、「ノーバヤ・ガゼータ」紙の創設者の一人で、現在編集長をつとめています。ほとんどのメディアが体制に迎合するなか、「ノーバヤ・ガゼータ」は汚職や治安機関の暴力、選挙違反などでプーチン政権への批判的報道を続けています。そのため記者たちは恒常的に暴力や脅迫にさらされてきました。


【ドミトリー・ムラトフ氏 (NHKニュースより)】


 10月8日夕方、受賞発表後の会見で、ムラトフ氏は、「まず言わせて。この賞は彼らのものだ。アンナ・ポリトコフスカヤ、ユーリー・シチェコチヒン・・」とプーチン政権下で殺害された6人の同僚たちの名をあげました。これだけの犠牲者を出しつつ活動を続けるメディアは、世界でも皆無でしょう。

 ムラトフ氏は、仲間が犠牲になるたび、新聞を存続すべきかどうか真剣に悩むといいます。報道の自由をつらぬくことと、記者の命を守ることとのはざまで苦悩する編集長に対し、社員たちはこぞって、閉鎖すれば政権の思うつぼになる、存続すべきだと強い声を上げてきたそうです。


【「ノーバヤ・ガゼータ」の社内に掲げられている殉職した記者の遺影(NHKより)】


 今回の受賞が、彼らの崇高な志を世界に知らしめ、多くのジャーナリストたちを勇気づけてほしいと思います。

 犠牲者の最初にあげられたアンナ・ポリトコフスカヤ氏は、プーチン政権によるロシア南部・チェチェンでの人権侵害をめぐる調査報道ときびしい政権批判で知られた記者で、受賞決定の前日は彼女が暗殺された日からちょうど15年にあたっていました。事件をめぐって実行犯とされた人物らに7年前に終身刑が言い渡されましたが、首謀者は明らかにならないまま、事件はこの日時効を迎えました。


【アンナ・ポリトコフスカヤ氏(wikipediaより)】


 2006年の夏、私は彼女を日本のテレビ番組で紹介したいと思い、取材を打診したところ了解をもらいました。ところが、その番組の企画を立てていたとき、彼女が殺害されたとの報が飛び込んできました。自宅アパートのエレベーターで銃撃され、死亡したというのです。モスクワ中心部での白昼の出来事でした。犯行は10月7日。この日はプーチン氏の誕生日で、暗殺はバースデイ・プレゼントだろうと市民は噂しあったそうです。

 事件から一か月も経たない11月1日、ロンドンに亡命中のアレクサンドル・リトビネンコ氏が、何者かに猛毒の放射性物質、ポロニウム211を飲まされて病院に運び込まれ、同月23日に亡くなりました。彼は元FSB(ロシア連邦保安庁)の工作員でした。FBSとは、ソ連時代の悪名高いKGBの後身です。英国警察は、容疑者として元KGB職員を特定し、ロシアに身柄の引き渡しを求めましたが、ロシアはこれを拒否しました。


【放射性の毒物を盛られて入院中のアレクサンドル・リトビネンコ氏。頭髪がすべて抜け落ちている。(wikipediaより)】


 ポリトコフスカヤ氏、リトビネンコ氏に共通するのは、「チェチェン」というキーワードです。「チェチェン」は、今に続くプーチン氏による政治支配の誕生にかかわっていました。

 99年8月、エリツィン大統領は、FSB長官のプーチン氏を首相に抜擢します。すると翌9月、高層アパートが次々に爆破される事件が起き、死者は300人にのぼりました。

 当時はチェチェン共和国の独立をめぐる第一次チェチェン紛争(1994~96)が休戦中でしたが、プーチン首相はアパート連続爆破事件を、チェチェン独立派のテロと決め付け、9月23日、チェチェン共和国に猛爆撃を加えました。第二次チェチェン紛争のはじまりです。

 プーチン氏が宣言した「テロとの戦い」は、経済破綻と社会混乱で不満がたまっていたロシア国民の大喝采を受けます。その後ロシア連邦軍がチェチェンに攻め込んで占領し、住民に対する激しい弾圧が行われました。二回のチェチェン紛争での犠牲者の数はジェノサイドの疑いを抱かせるほど多く、人口約100万人の2割を超える人々が死亡したと言われています。無法地帯と化したチェチェンの虐げられた人々に寄り添いながら、権力の横暴を糾弾したのがポリトコフスカヤ氏でした。


【プーチン大統領(wikipediaより)】


 首相に指名された時、プーチン氏はロシアの政界でも「プーチンって誰だ?」との声が上がるほど無名でした。しかし、チェチェン攻撃により、「強い指導者」として一気に人気が上昇し、翌2000年には大統領選挙に圧勝。治安・国防機関の出身者を政権中枢に配置し、「プーチン王朝」と呼ばれる絶対権力を築き上げました。

 つまり、アパート連続爆破事件とそれに続くチェチェン攻撃こそ、プーチン氏を権力の座に押し上げた最大の要因だったのです。

 そのアパート連続爆破は「自作自演」だと告発したのがリトビネンコ氏です。

 リトビネンコ氏は、上司から暗殺の指令を受けたとしてFBSを告発し、プーチン氏が大統領になった後、身の危険を感じて英国に亡命しました。

 その彼が、アパート連続爆破は、チェチェン侵攻の口実をつくるためにFSBが仕組んだ偽装テロだと暴露したのです。


【2004年のリトビネンコ氏。常岡浩介さんはロンドンで元気なころの彼を取材していた。(フジテレビの番組「スタメン」より)】


 チェチェン紛争は「テロとの戦い」だとする権力の大義を否定するリトビネンコ氏、そしてチェチェンにおける暴力の実態を糾弾しつづけるポリトコフスカヤ氏。二人があいついで殺害された背景は、いまだ解明されていません。

 

 私は、リトビネンコ氏と生前親交があった唯一の日本人、ジャーナリストの常岡浩介さんとロンドンを訪れ、妻のマリーナさんやチェチェン穏健独立派指導者のアフメド・ザカーエフ氏を取材しました。その後、私の仲間がロシアで取材した映像を合わせ、テレビ朝日「報道ステーション」で特集「プーチン王朝の闇」を制作し、2008年7月に放送されました。私にとってこの番組は、殺害された二人へのささやかな追悼でした。

 今回のノーベル平和賞の受賞者たちの置かれた厳しい状況は、私たち日本人には遠い世界のことに思われるでしょう。しかし、いま私たちが享受している自由は意外に簡単に失われ、現在のロシアやフィリピンのようになってしまうかもしれません。

 というのは、私は、ロシアもフィリピンも1980年代から取材してきましたが、30年前はどちらの国にも、とても自由な雰囲気が漂っていたのを覚えているからです。

 ソ連は80年代後半、ゴルバチョフ共産党書記長のペレストロイカ(建て直し)、グラスノスチ(情報公開)の掛け声のもと、政治的自由、信仰の自由をはじめ市民の自由権が認められます。共産主義体制が崩壊して報道の自由が保証され、たくさんの民間のメディアが新たに誕生しました。ゴルバチョフ氏自身が1993年の「ノーバヤ・ガゼータ」の創設を支援し、同紙の株主にもなりました。

 フィリピンでは1986年の「2月革命」でマルコス独裁政権が倒れ、新体制に変わりましたが、私はその移行期、テレビ通信社の特派員としてマニラに駐在していました。革命を祝って街頭に繰り出した人々の顔は、希望に輝いていました。報道に対する制限もいっさいなくなり、ジャーナリズムは活気づいていました。


【フィリピンの民衆革命でコラソン・アキノ氏が大統領に就任した。(wikipedia)】


 ロシアもフィリピンも表面的には選挙制度をもつ「民主主義国」のままです。それなのにいまや、権力に都合の悪いことを報じれば、身の危険を覚悟しなければならない事態になっているのです。

 

 香港の民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)さんが、逮捕される前、私たちにこう訴えていました。

 「日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」

(本コラムNo.5「香港が消えた日」https://www.tsunagi-media.jp/blog/news/5を参照)


【周庭さんのツイッターより】


 自由が奪い去られぬよう、しっかり見守りつづけることを肝に銘じたいと思います。

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