輝く死

あやつなぎ

 先日友人が亡くなった。

 41歳の若さだった。

 1年ほど前に癌とわかった。その時すでにステージ4。

 本人は事実を受け止め、周囲にも話していた。

 最後に会ったのは今年の2月だっただろうか。

 「今年はまだ死なない気がするよ」とウイスキーロック片手に笑って話していたのが懐かしい。

 以降コロナで会うことはできなくなった。

 そして7月5日の早朝、亡くなった知らせを受取った。

 葬儀は地元の大阪で執り行なうとのこと、急いで飛行機に飛び乗った。

 東京から首都の座を奪ったのではないかと思うほど、大阪は活気に溢れていた。

 コロナなどどこ吹く風、阪急うめだは人でごった返している。

 自粛のストレスは購買行動へと直結するようだ。

 梅田から地下鉄で30分、駅前にタクシーはおらずさらに歩いて30分。

 滝のように流れる汗も斎場に着くと不思議と止まる。

 厳かで粛々と進む空気がそうさせるのだろうか…

 どれだけの人が大阪以外から参列していたか私は知らないが、コロナによって最後の別れをやむなく断念した方もいたに違いない。コロナがなければ私もあと数回は顔を合わせることが出来ただろう。

 物理的にも心理的にも、ありとあらゆるものを分断にかかるのがコロナである。


 

 憚られるのは承知で翌日熊本へと向かった。

 羽田もそうだったが伊丹も閑散としていた。大阪ー熊本はジェット機では無く収容人数の少ないプロペラに変わっていた。航空会社の固定費は6割と言われている。必死に持ちこたえている。

 私の実家は熊本県八代市。この夏多くの人に認知されたに違いない。喜ばしくはないが。

 幸い我が家はギリギリのところで浸水から免れていた。

奥の車が見えるのが我家

 着いたその足で被害の酷い人吉市に向かった。

 見慣れた景色は一変していた。


 2番目の弟は4月まで人吉で暮らしていた。

 住んでいた家は完全に浸水していた。越してなかったら亡くなっていただろう。

 翌日は八代市の中でも特に被害の酷かった坂本町へと向かった。

 

 八代の中心市街地から人吉に向かう道の途中に坂本町はあるのだが、道が崩落して進めない。

 実家の日奈久からの山越えルートも崩れて進めない。

 唯一のルートが隣町の二見から生きていた。しかし、この道のりも困難を極めた。


 このあたりも被害があるようだが、警察・消防・自衛隊・県職員の姿は見られなかった。

 所々、崩落した道の復旧工事を民間業者が行っていた。

 公的な機関の人間が誰もいないことに違和感を感じるも先へ進んだ。

 八代から球磨川沿いに人吉へと続く国道219号線へと出た。

 赤い橋が流されている映像は多くの人が目にしただろう。

 坂本町には球磨川に3つの赤い橋が架かっていて、この橋が一番上流で、流されたのは最下流の橋の様だ。

 橋を越えて肥薩線の葉木駅へと向かった。



 駅に車を置いて歩いて進んでみる。

 球磨川沿いに走る肥薩線とその側道は、葉木駅の先で崩落していた。

 これ以上進むのは困難と判断し引き返すことにした。

 駅に置いていた車に乗り、走り出そうとしたその時、1人の男性が窓ガラスを叩いた。

 「できれば八代消防署まで乗せてもらえないか」とのこと。

 聞くと、先程の崩落現場の先の集落に100人程が孤立しているらしく、状況を伝え助けを求めるために、職場である八代消防署へと向かうため歩いて来たらしい。

 運良く我々がいたと。誰もいなければ進めるかもわからない20キロを超す道のりを歩くつもりだったと。

 早速乗せて八代消防署へと向かった。

 道中、豪雨災害発生から現在に至るまでを伺った。(⇓動画*音声のみ)



 先程の崩落現場から2.4㎞先に約100名程が孤立状態にあり、自衛隊もヘリでの救出を試みるも不可能で、救援物資も届いていない。ライフラインは全て遮断され、食料も底をついた現状。

 しかし、テレビでよく見かけた校庭に書かれた“SOS”はこの人の指示によるものとは。

グラウンドのSOS

 現状の認識が出来ているのか確認するため、車中でまず八代市役所に電話をした。

 すると、災害対策本部がある八代消防署に向かってくれと指示を受けた。

 どちらにせよ向かっていたわけで、到着すると消防署長室に案内された。


 消防署長より、救援物資を孤立集落に届けてほしい、と正式な依頼を受け物資を積み込みまた戻ることになった。



 物資と先程の男性を乗せ葉木駅へ向かうのだが、その途中男性が持病の薬が無くなったとのことで病院に寄り、かつ何も食べていない様なので、我が家で食事を提供し、役に立ちそうな乾電池やモバイルバッテリー等々も積んで向かった。

 運ぶとなると人手が多い方が良い、近くにいる公的機関の人間に手伝ってもらおうと考えた。

 昼間、葉木駅先の崩落現場に、熊本県庁の人間が被害状況を確認しに来ていたのを思い出し、県に連絡してみた。

 物資を運ぶ様依頼されたので近くにいる職員に手伝って欲しい旨を伝えた。

 すると折り返しますとの返事。しかし、一向に電話はかかって来ない。諦めた頃に駅に着いた。

 男性から、孤立集落まで運んでもらうのは困難で申し訳ないので、駅に置いといてもらえば明日の朝集落の人間を連れて運びますから、ここまでで十分です。と。

 深く考えたが、男性の意見を受け入れ、荷物を置いて我々は帰ることにした。




 男性と集落の無事を祈り、別れることとした。

 本当にこれで良いのだろうか?

 集落の食料は底をついている。悪天候が続きいつ自衛隊や救援物資が来るかわからない。ただでさえ体力が低下している中で、翌朝危険で困難な道を物資を抱え運ばせて良いのだろうか?

 やはり今運ぶべきなのではと思い、改めて県に電話してみた。

 「本日、葉木駅周辺に県職員は誰もおりません。ですので人を派遣することは不可能です。」と言って電話は一方的に切られた。 

 そんなはずもないのは確認しているので、改めて電話した。

 「こっちは忙しくてそれどころじゃねぇんだよ。ふざけた電話してくんな。」また切れた。

 この熊本県の対応は許していいものなのだろうか?

 民間人の我々に物資の運搬を正式に頼んだのは災害対策本部である。自分たちが頼んでおきながらこの電話の対応である。百歩譲って我々はどうでもいい。しかし、目の前に食料もなく命の危機が迫っている人たちがいるにもかかわらず、よくこんなことを言えたもんだ。

 完全諦めて葉木駅に引き返すことにした。

 父も合流し、親子3人で物資を運ぶことに決めた。

 

 人生で初めて間近に死を感じた。山や道はまたいつ崩れてもおかしくなかった。

 この状況下で運んだことが正しかったかはわからない。

 しかし、生きて戻り、100人に食料は届けられた。その事実だけを受け止めたい。

 途中で自衛隊2人に出会った。彼らは生存者がいないか、道なき道という道をしらみつぶしに歩いて確認しているらしい。さらに2駅先まで歩きますと言って別れた。感銘を受けた。

 そんな自衛隊と比較すると熊本県の対応は憤りしかない。

 我々が死んでいたらどうしたのだろうか?

 民間人に正式に依頼しておいて死者がでたらただ事では済まない。

 我々は自分の意志をもって運んだので、仮に死んでたとしても責めるつもりは一切ない。

 しかし、あの電話の対応を許すわけにはいかない。

 もっとやれることがあったはずである。

 報道によると、後に集落全員無事に救出されたそうだ。

 不思議な縁である。

 友人が亡くなっていなければ、コロナ過で熊本には帰らなかっただろう。

 物資を届けることもなかったはずである。

 届けた食料が100人の命にどれだけ寄与したかはわからない。

 だが、少なくとも多少は意味があったに違いない。

 友の死は、遠く離れた地で小さく輝いた。

 ありがとう、松田。

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